第31話 ケイオスとプリマベーラ
ようやく鈍い咳が止まった。
そのまま一から五までの数字を頭の中に思い浮かべる。昇順に並べ終えたら次に十、それから二十までを一つずつ数えていく。単純な作業を繰り返すことで意識も徐々に整っていく。
膝に力を入れ、勢いをつけて上体を起こす。途端にくらりと頭の芯が揺れて、意識の焦点もぐらつきかけた。
冷たい汗がどっと噴き出し、頬を伝い落ちていく。
手、それから口、顔の順に水で洗い流す。透き通った水の冷たさが、生きていることを知らせてくれているようであった。
不自然なまでに心臓がどくどくと早鐘を打っている。その乱れたリズムがまともな呼吸さえも阻むようで、吐息するごとに疲労が蓄積されていく。
レオンは努めて肺の中が空になるほど深く息を吐き出した。そして、慎重に息を吸う。
深呼吸を繰り返していくうちに、暗くなった視界が徐々に明るさと彩りを取り戻す。耳に、音が帰ってくる。
「君、大丈夫か?」
のろのろと瞼をあげたレオンは、その声音に視線を彷徨わせた。
「…………」
一瞬の空白ののち、全てが脳裏を駆け抜けて行き、現状を把握する。
額に滲んだ汗をぬぐい、ようやく落ち着きを取り戻す。
「大丈夫か?」
もう一度聞かれ、レオンは声の持ち主を顧みた。
手洗い所の扉から数歩離れた位置で、腕組みをした白髪の男が柱に寄りかかっていた。
ケイオスは瑠璃色の片目をこちらに向け、肩の力を抜いたような風情で言ってくる。
「何だ、先ほどよりもだいぶましな顔色じゃないか」
レオンは目線をぐるりと廻らせる。
壁に掛けられた鏡をまじまじと見つめるが、常より険の増した目つきの己が睨み返してくるだけでいまひとつ実感が持てない。
「少しはすっきりできたようだな」
あれほど悪寒に苛まれていたというのに、体は少しだけ楽になっている。
けれどもそれは肉体的な部分だけで、気力はだいぶ削られた状態であるのが感じられた。
「はあ。どうも。おかげさまで……」
店の中へ戻ると、プリムの安堵したような微笑みが迎えてくれた。
「良かった。すっきりしたって、顔色ね」
「どうもご迷惑を……」
「あらいやだ、気にしないで」
プリムの眉がほんの少し下がった。ケイオスの方へ手を向け、苦笑の滲んだ声音で返してくる。
「困ったときはお互い様でしょう? むしろ、これが無理矢理連れてきたみたいでごめんなさいね」
「いえ……」
結果は置いておくにしてもケイオスの助け方には多少の難はあった。けれども、道端で致すことの方が問題である。レオンは言葉を濁し、カウンターから顔を反らした。
レースのカーテンが静かに揺れ、店内にも涼しい風がそよぎ始める。
「とはいえ、さっきよりは多少ましになった程度の様子のようだし、落ち着くまではここで休んでいきなさいな」
「そうしていきなさい。君、来たときは相当酷い顔色だったぞ。蒼白を通り越して土気色だったな」
ケイオスが至極真面目な面持ちで首肯すると、プリムが紅茶色の瞳を鋭くさせた。
「あなたの運び方に問題があったと思うけど」
「一刻を争う事態だったんだ。仕方あるまい」
「お医者様呼ぶとか、診療所に連れて行くとか他にもスマートな方法があったでしょうに」
「港からだと診療所よりも君の店の方が近いだろう。それにここをどこだと思っているんだね?」
「目抜き通りクライン薬局」
プリムの口から、長々とした吐息が漏れるのが聞こえてきた。
「そりゃもちろん薬局ですから酔い止めも完備してますけどね、噴火寸前の山に水をちょい足ししたって焼け石に水でしょうが。薬は正しく飲んで初めてその効果が得られるんですからね」
「使用上の注意をよく読んで用法・用量を正しく守ってお飲み下さいというわけですね、分かります……」
レオンは反射的に口走っていた。
「あなたよりずっとよくわかってるわよ、彼」
プリムがどこか投げやりに言ってきた。口元は笑みをたたえているが、目が笑っていない。
「噴火した後の火山に水は効くのかね?」
ケイオスは瑠璃色の片目でこちらを見つめながら、そのまま言ってきた。全くめげていない。
「……お客様、ご存知ですか。酔う前に飲むから酔い止めというんですよ」
ケイオスにしっかりと犬歯を見せてから彼女は店の奥へと引っ込んだ。
レオンは腕をさすった。不意に強い風が吹き込んだわけではないが、何だか寒気がしたのである。
ややあってから再び彼女が顔を出した。水の入ったコップを盆に載せ、カウンターへと戻ってくる。
レオンの方へコップが差し出される。怪訝に思って彼は腕をさするのを止めた。プリムの瞳が綺麗な弧を描いた。
「どうぞ召し上がれ。胃がびっくりするといけないから、ゆっくりね」
「頂きます……」
少しずつ水を口に含む。すると、すぐにぴりっとした刺激と爽やかな酸味が口内に広がり、すっと溶けていく。
「ごちそうさまでした。これ、何ですか? すっきりしますね」
コップを盆に戻してレオンは眉を動かした。
ケイオスが自信たっぷりにうなずいた。瑠璃色の瞳に強い光が宿る。人差し指をぴんと立て、告げてくる。
「魔法の水だ」
「は、はあ……」
「ちょっと! 新規のお客様にうちの店へのうさん臭いイメージを植え付けないで!」
プリムの鋭い声が、店内に響き渡った。
疲れたように額に手を当て、彼女はカウンターの向かいに座りこんだ。小さく息を吐き出し、やがてレオンの方へ紅茶色の瞳を向けた。
「ただのショウガ水よ。ショウガは胃腸の動きを抑える成分が入っているの。酔い止め用薬にも入っているからそのうち落ち着くわよ。本当はあらかじめ炭酸水で割ったのを飲んで、げっぷを出しておいた方が酔ったとしても軽く済むんだけど、あなたの場合、もう遅かったみたいだから」
「ああ、ショウガ水だったんですね。うちの祖母もよく作ってくれていました」
「粉薬は苦いから、子どもは飲みたがらないものねえ」
感嘆するレオンの声音に、彼女はゆるりと頬の力を抜いた。
カラン、と鐘の音が鳴った。
開いた店の扉の方へ視線を走らせ、彼女が立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
扉から顔を出したのは、栗色の髪の小さな男の子とその母親らしき女性だった。
「あら、ヒューゴ君。こんにちは」
プリムが弾んだ声をかけると、男の子はほぼ駆け足でカウンターに近づいてきた。
「プリマベーラおねえちゃん、ぼく、お熱さがったよ!」
背伸びして笑いかけてくる男の子に、彼女もまた安堵の息と共に「よかったねえ」と心から嬉しそうに口元をほころばせた。
「せんせいの出した苦くておいしくないおくすりだって、がんばってシロップで飲みきったし、ママの言うとおりにあたたかくしておとなしくしてたんだよ」
「おお、ヒューゴよ。風邪を見事退治してくるとは大義であるぞ」
誇らしげに胸を張るヒューゴ少年に彼女は悪戯っぽく口角を上げ、大きくうなずいて見せた。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく、くつくつと嬉しそうに声を立て始めた。
ひとしきり笑った後で、少年は大事そうに抱えていた紙包みを持ち上げた。
「うん? なあに」
プリムはきょとんと紅茶色の瞳を瞬いた。
「たい焼き。おかあさんと作ったんだ」
良いのかとでもいうように、プリムが母親の方へさっと視線を送っているのが見える。
「ご迷惑でなかったらどうぞ召し上がって下さい」
母親もにこやかに微笑みを返す。ヒューゴの頭を優しく撫で、あとを続けてくる。
「この子、いつもはお薬を飲むのを嫌がって、なかなか風邪が治らなくて困ってたんです。でも、近所の方からこちらの薬局の子ども用シロップで飲みやすくなるって聞いて。試してみたら、本当に子どもには飲みやすかったみたいで……。このとおり、おかげさまで元気になりました。それこそ元気が有り余るくらい。ですから、よろしければもらってやって下さい」
プリムの大きな紅茶色の瞳が、零れ落ちそうなくらいまあるく見開かれた。それから照れくさそうに眉が下がり、柔らかに微笑んだ。
「お役に立てたのでしたら、こちらこそ嬉しいです。ご丁寧にありがとうございます。喜んで頂きます」
「カスタードのも好きだけど、ぼくも、パールディアのおばーちゃんもあんこの方が好きなんだ。元気になったから、これからおばーちゃんのところへお祭りを観に行くんだよ。おばーちゃんにもあげるんだ!」
きらきらと目を輝かせるヒューゴにプリムも思い切り笑いかけた。
「そうなんだ。いいねえ。パールディアだと『金のしっぽ』っていう、たい焼き屋さんが白餡にこし餡、つぶ餡、他にもいろんな種類の餡を取り扱っていておいしいから、おばあちゃんと良かったら行ってみてね。本店は中央公園のすぐそばにあるんだけど、清流祭の間はあちこちに出張して露店も出してるはず。だから、すぐに食べられると思うよ」
「うん。おばーちゃんと行ってみる! じゃあ、お姉ちゃん。そろそろ行くね。二時の船で出発するんだ」
「失礼します。本当にありがとうございました」
母親がヒューゴの背を押すと、少年もまたぴょこんと跳ねるように頭を下げた。
「こちらこそありがとうございます。ヒューゴ君、たい焼きごちそうさまです。お祭り、思いっきり楽しんでおいでね」
眩しい笑顔で大きくうなずくと、少年は母親の手を引っ張り、「早く早く」と促すように扉へと駆けて行った。
再びカラン、と鐘が鳴る。
親子と入れ替わるように爽やかな風を連れ、壮年の男性が入ってきた。
「おーい。プリムちゃん、いるか?」
たい焼きの包みをそっとカウンターの脇へ寄せ、プリムが笑いかけた。
「おじさん、いらっしゃい。いつもの?」
「うん。頼むわ。って何だ。ケイオスもいたのか」
白髪交じりのその男性は、ケイオスにも「よう」と朗らかに声をかけた。ケイオスも軽く会釈し、自分の座っていた椅子を相手に勧める。
椅子に腰かけながら、男性は右肩をほぐすように揉んだ。
「船に置いてる分がきれちまいそうだから補充しねえと安心できなくてなあ」
「湿布もいいけど、あんまり無茶しないでよ。船出す前に準備体操するとか」
プリムが肩をすくめて息をつく。
「うちの父も最近になってようやく始めるようになったけど、珍しく続いているとこ見る限り、なかなか効くみたいよ?」
「へえ、ファーロがねえ。奴め、さてはこの間、飲んだ時のこと気にしてるな」
にやりと口の端を吊り上げた。
「え? 何かあったんですか?」
ぱちぱちと目をしばたたくプリム。彼は笑いをこらえつつ語り始めた。
「いやあ、トムんとこが久々に会った孫を抱っこしようとして苦戦したらしくってな。ほら、あそこの孫、今度学校に上がるだろう? で、抱っこしたは良いが、次の次の日からしばらくの間、筋肉痛で使い物にならなかったんだと。寄る年端には敵わないって、みんなで大笑いしたというわけだ」
でもさ、と彼は優しい笑みを落とした。
「やっぱり孫の前では少しでも格好良い爺さんでいたいんだよなあ」
照れくさかったのか、冗談めかして肩を思い切りすくめた。
「あいつ、何も言わずに飲んでたけど、やっぱり気にしてたのか。笑えるなあ」
「いやいや、そんなまさか。だって、うちの父ですよ? 頑固を絵に描いたようなあの父に限ってそれはないでしょう」
疑わしくプリムが顔をしかめるが、相手はなおも言い募った。
「いやいやいや。プリムちゃんは一人娘だろう? だから、いつかプリムちゃんが幸せな家庭を持ってお母さんになったら、あの親父だって孫をめちゃくちゃかわいがる爺馬鹿になるぞ。絶対に。賭けてもいいね」
「またまた〜。全然想像できないわ。もしそうなったら面白いけど」
「ま、そう遠くない未来だろうけどな」
彼は意味ありげに片目を瞑り、ケイオスとプリムに交互に笑いかけた。途端、プリムはどこか落ち着きなくうろうろと視線を彷徨わせ、ケイオスがやけに大きな咳払いをせわしなく繰り返す。
そんな二人をにやにやと眺めていた男性は、思い出したように手提げ袋から一つの包みを出した。
「そうそう。お前さんたち、たい焼きは好きか?」
「好きだけど、もしかして、それ全部たい焼きなの?」
プリムが零れそうなくらい紅茶色の瞳を大きく開くと、彼は重々しく語り始めた。
「うちのかみさんが買ってきたところに嫁と孫も買って帰ってきてなあ……。今、我が家では晩飯までたい焼きで済ませようという恐ろしい計画が浮上しているんだ。助けてくれ、頼む!!」
「あらら。そういうことなら。お昼ご飯代わりにありがたく頂きます」
「ありがとう! 助かるよ!」
ほっとして男性が大きく息を吐き出す。が、すぐに胡乱げな眼差しをカウンターへ向けた。
「……おいおい、昼飯まだだったのか。そんなに忙しいのかい?」
「そうでもないけど、ケイオスにお使い頼んだのにこなさずに帰ってきたから遅れてるだけ」
「…………」
プリムがにっこりと微笑むが早いか、ケイオスがカウンターの内側に回り込み、奥へと姿を消した。けれども、すぐに茶器を載せた盆を持って現れた。きまりが悪いのだろう、眉がその端正な顔に深い皺を刻んでいる。
「そういやケイオス、今日も船を出してないんだな」
「ええ。今日もまだ」
静かにうなずくケイオスの眉はすっかり下がっている。
おじさんは頭をがしがしと掻いた。
「もったいねえなあ。清流祭シーズンだからいつもより繁盛するっつーのに」
「それもそうだけれど、ご覧のとおり、彼、まだ先生からお許しが出ていないのよ」
す、とケイオスの眼帯をプリムが指差した。
「そうか、せっかくの稼ぎシーズンに虫刺されだなんて気の毒に」
がたん。
「…………君、どうした? 歩いていないのに何故転ぶ必要があるんだね」
「いや……何といいますかその……」
椅子を抱えて起き上がりながら、レオンは何とかうめいた。
「ケイオスさんの眼帯って虫刺されのせいだったんですか」
「ああ。それがどうかしたかね?」
特にどうということもなく聞き返してくる彼に、レオンは黙したまま眉を下げた。椅子をもとの位置に戻し、腰を下ろす。
「いや、何というか、安易に触れてはいけない深い事情があるのかと思っていました……」
途端、プリムと男性が肩を大きく震わせた。弾けるように二人は笑い出す。
「確かに触れちゃいけないのが理由なんだけどよ、紛らわしいよなあ! こんな美形がいかにもワケありの海賊みたいな眼帯つけてると!」
「でも、ただの虫刺されなのよねえ。薬を塗ってもうっかり触っちゃうから、とりあえず抜本的な策として触れないようにしてしまおうという彼なりの工夫なんですって」
「仕方ないだろう。白い眼帯が品切れだったんだ。それに、もうそろそろ腫れも引くはずなのだ」
むっとした様子でケイオスが茶を淹れ、配り始める。
「まあまあ。ファーロも泥船に乗ったつもりで安心してるって言ってたぞ」
「沈みます沈みます」
レオンが指摘を入れるも、男性は腹を抱えた。
「あっはっはっ! ファーロは素直じゃない奴でな、まあ、悪態つけるってことは、それだけケイオスを信頼してるってことだよな」
ケイオスとプリムはどちらからともなく淡く微笑んだ。
こそばゆい空気にあてられて、レオンはつい男性の方へ視線を泳がせた。すると、彼もまた小さな苦笑を浮かべていた。
男二人で続ける苦笑いのキャッチボールの気まずさに、レオンは口の端の引きつりを自覚する。
ついに相手が先に根を上げた。レオンの肩を大仰に明るい調子で叩いてくる。
「ほらほら君も食べなさい! 大きくなれんぞ!」
頬を引きつらせたままプリムに視線を送ると、彼女も大きくうなずいた。
「うん。そろそろ胃が落ち着いただろうから、大丈夫なら遠慮せずに食べてね。その後で、お薬飲むのをお勧めします」
「何だ、結局商売するのか」
ケイオスが拍子抜けしたように片眉を上げた。
「あら。あなたがお客さんだって連れてきたんじゃないの」
澄まして応じるプリムに対して更に何か言い返そうとするケイオスを、おじさんが手で制した。
「ケイオス、やめとけやめとけ。ここでも晩飯がたい焼きになるぞ」
「おじさんも食べて行ってよね。一つくらいは」
プリムの鋭い視線から逃れようと、おじさんはきまり悪げにお茶を飲む。感心した様子でカップをまじまじと見下ろす。
「お、ケイオスもなかなか美味い茶を淹れるようになったな」
「それほどでも……ありますね」
飄々と返すケイオスに、くつくつと肩を揺らす。
プリムが先ほどの少年のたい焼きと、男性からもらったものを皿に取り分けて一同に配り始める。それをごく自然に手伝うケイオスの姿を眺めて、おじさんはぽつりと零した。
「何年になる?」
尋ねられ、ケイオスもまた懐かしむように瑠璃色の片目を細めた。
「九年です」
「そうか。あれからもうそんなに経つのか。時が経つのは本当に早いな」
おじさんも大きく息を吐いた。
「お前さんが来たばかりのころは、もやしみたいに白くってなあ、そのくせ顔立ちはえらく綺麗で、一体どこの坊ちゃんかと思ったもんだ――」
「そうねえ」
そっと思いを馳せるようにプリムが息を吐いた。
「でも、たい焼きをナイフとフォークで食べようとするひとに遭遇するなんて、後にも先にもこのひとくらいでしょうね」
呆れたように、けれども柔らかに彼女は微笑む。
静かに話すプリムを見つめるケイオスの瞳も優しげに細くなっていく。
レオンはたい焼きの尾を齧る。最後までぎっしりと詰まった餡が、ほのかに甘く、優しく口の中に広がった。