第30話 目抜き通りクライン薬局
ウォルサムの目抜き通りに、二つの影が差した。
一つはすらりとした長身の男だった。白い髪が、昼時の緩やかな風になびいている。太陽の光に照らされて、白い砂の川のように揺れ動く。
黒い上着が風をはらんでふわりと広がる。金の房飾りがきらきらと光を振りまいている。
その人影に引きずられた二つ目の人影が半眼のままうめき続けた。
(どうしてこうなった)
けれども思考はいくらも続かずに――レオンは、震える自分の足を見下ろした。冷や汗が額に浮かぶのが分かる。
首を締め上げられているような感覚は、後ろ襟をつかまれたまま引きずられているせいで残念ながら錯覚ではないのだが、徐々に呼吸が困難になっていく。胃の腑から喉元までせりあがってくる不快感と彼は長く戦い続けていた。
競うように軒先を連ねた屋台や店から飛び交う威勢の良い呼び声も、すれ違う人々の話し声すらもなんだか遠い。
そんなことには一向に構わずに、男はレオンをずるずると引きずって歩みを進める。
やけくそになってレオンは男に声をかけようと口を開く。
が、声を発する前に男は正面の扉を開け、信じられないほどの力でレオンを中へと引きずりこんだ。
外の日差しのせいか、少し薄暗い建物の中に入ると眩暈のようなものを覚えた。視界がちかちかするので、大きくまばたきをしてから中の様子に目を凝らす。そこには壁に沿って下っていく緩やかなスロープがあった。
カラン、と小気味の良い音が鳴った。男が扉を閉めたのだ。レオンを引きずりながら男はスロープを下っていく。
スロープの起点に到着すると、今度は木目の床が規則正しい足音で男の踵を撥ねた。そして、レオンの踵をずるずると擦った。
室内は木目を基調としているようで、壁紙はほんのりと色づいた優しい生成り色だった。今の時間帯、照明は外の光から引いているようだ。たっぷりとした強い日差しを、白いレースのカーテンがやわらげている。
息をすると、消毒液や癖の強い香草の匂いが混ざり合って鼻を突いてきた。
天上からは乾いた薬草が背比べをするかの如く吊るされ、聳え立つ商品棚には薬の瓶や包帯、綿棒といったものが整然と陳列されていた。
「客だ」
男が奥の方へ呼びかけると、一人の女がカウンターからひょいと顔をあげた。
「ずいぶん早かったじゃない」
「客だ」
「あら珍しい。あなたにお客様だなんて。明日は雨ね」
飴色の長い髪。絹糸のような直線を描くその髪は一本のくせ毛もない。細身な身体にエプロンをかけ、まっすぐなその髪を後ろで纏めている。まばたきを繰り返す大きな瞳は紅茶色だった。
彼女は手にしていた乳鉢をカウンターに置くと、相好を崩した。にこにこと微笑み、こちらへと右手を差し出してくる。
白髪の男性が不思議そうに彼女の手を見つめ、首を傾げる。
彼女もつられるように向かって反対側へと首を傾け、ゆっくりと口を開いた。
「あんパン」
言われ、男性はそのまま目を瞬かせた。今度は逆方向に思い切り首を傾げてから、大仰にうなずいた。
「ああ! そういえば、買出しを頼まれていたのだったな。君に」
「忘れるな! 今ごろ思い出すなああああっ!」
女性が思い切り怒鳴り声をあげたが、彼はどうということもなく、そのままカウンターそばのベンチに悠々と腰掛けた。同時にレオンの襟元が緩められる。待ちわびた開放感にレオンが深くため息をつくと、彼は隣のスペースをぽんと叩いて示した。座れということらしい。ぐったりともう一つ嘆息し、レオンも隣にへたり込んだ。彼はそれを満足そうに見届けていた。
カウンターの上には走り書きのようなメモや数字が細かく書きつけられた紙片、広げられた本が数冊、重なり合うように広げられていた。そのうちの分厚い一冊を取り上げて閉じるや否や、男は透き通った瑠璃色の瞳を彼女へと注ぐ。そして、さらりと告げた。
「プリム。研究熱心なのは結構だが、脳に糖分が足りていないようだな」
「……その糖分を補うためのあんパンを買ってくるようあなたに頼んだんじゃなかったかしらね、ケイオス?」
すぐに震え声が店内に響いた。気のせいでなければ、怒気が含まれている。
「おお。そういえば」
彼女――プリムと呼ばれた女性はこめかみを押さえて、目を閉じた。大きなため息がレオンの耳にも入ってくる。どう見てもひたすら疲れきっているようであった。
「店番頼むとろくなことにならないから買出しを頼んだのに……。ケイオス、あなたって人は……。お遣い一つこなせなくて、これから先どうやって生きていくつもりなのよ?」
「問題ない」
「何ィ?」
プリムが一気に眉を吊り上げた。
対する男性――ケイオスと呼ばれたか――が、からりと笑った。
「君がいるだろう。この先も、ずっと」
ぽかんとしたようだが、まばたきを一つ落とすが早いか、彼女はケイオスから素早く顔を背けた。けれども、その頬も耳も火が付いたかのように紅く染まっていた。
熱を冷ますかのように両の掌で自身を扇ぎ始めるプリムを、ケイオスは柔らかなまなざしで見つめている。
どことなく入るのが憚られる二人の世界からレオンは視線を外した。子ども用咳止めシロップのような妙に甘ったるい味が口内で広がった感じがする。思わず居心地の悪さに大きく息を吐いた。
息を吸い込んだ途端、喉元からせりあがってくる、しょっぱいようですっぱい不快感が蘇り、レオンは右手を力なく挙げた。
「すみません、手洗い所を貸して下さい……」
ぐったりとしたレオンに、プリムが飛び上がった。
「うわっ! あなた、ものすごく顔色悪いじゃない!? ちょっとケイオス!」
「何を驚いている? はじめに客だと言っただろう?」
彼女は声を尖らせた。
「そうだけどそうじゃないから。あなたの所じゃなくてうちのお客様だったんじゃないの。なんできちんと言わないかなあ……」
「そうだったかな?」
目をぱちくりとさせて、彼――ケイオスはそれだけは予想していなかったというように、首をかしげた。
なんにしろ、彼女は表情をますます険しくさせた。半ば叫ぶようにあとを続けてくる。
「ああもう! ケイオス! のんきに座ってないでお手洗いまで連れて行く! そこのあなたも立って! あと少しで楽になるから! 楽にしてあげるから気を確かに!」
その激励には穏やかならざるものも混ざっていたようだが、レオンはとりあえず立つことだけに意識を集中させた。
のろのろと立ち上がったレオンの肩を支え、ケイオスが真顔で尋ねた。
「プリム。連れて行くのは構わんが、君は?」
ふふっ、とプリムが笑うような吐息を漏らす。
「決まっているでしょう。ここをどこだと思っているの?」
「目抜き通りクライン薬局」
よろしい――というようにプリムは彼の答えにゆっくりとうなずいた。柔らかな日差しを反射させた紅茶色の瞳が緩やかな弧を描いて細められた。