第29話 君を知らない世界を君は識らない
「へえ。ベルとレオン君か」
響いたのは、自分でも分かるくらい間の抜けた声だった。
「魔術はからっきし使えない面々だねえ」
ウェントゥスの簡単な感想にレヴェランド・メールは軽く肩をすくめた。開け放たれた窓から風が渡り、目の前の真っ白なヴェールが大きく揺れた。
ぱちん、と彼女が指を弾く。
風で舞い上がった書類が重力の法則に従い、机の書類の山へと降りてくる。
きらめく紫色の瞳がこちらへと向けられた。
「寺院内ではどこまで魔術が通用するか、あたしにも分からないのよ。だからこそ、今回の面子になったんだけどね」
「へえ――――」
「たぶんサティなら大丈夫よたぶん。有翼人の魔術は完璧だから」
「メール。私は何も言っていないよ? まだ――」
静寂が、降りた。
どちらからともなく、彼らはにっこりと微笑み合った。
沈黙を破ったはウェントゥスだった。
「私も
そちらは心配していないよ。あなたの言うとおり、彼らの魔術は完璧だからね」
レヴェランド・メールは言葉を窮したように眉を下げた。
言い過ぎたか、と舌打ちをする。
彼は軽くため息をついて自身を見下ろす。夜の闇を写し取ったかのような漆黒の翼――かつてのあやまちの証。
「心配はしていない。だけど、一抹の不安は残る――あなたもそうだった」
ウェントゥスがまっすぐと彼女を見つめると、相手は電光石火の勢いで視線をそらした。ああ、やっぱり正直なひとだなあ、とその分かりやすい反応に胸裏で苦笑した。
「だからこそ、メール、あなたはサティと一緒にベルとレオン君をリプル寺院へ派遣した。万が一の切り札として――否、最悪のケースを想定したというべきかな」
ウェントゥスはそこまで言うと、口を閉ざした。
相手も何も言わない。
「レオン君にはあの子の魔力の暴走を止めさせるため。ベルには例の剣を持たせるため。サティとレオン君に運ばせたら、あなたの不安要素に気づかれるだろうしね。それに、ベルはあのとおりポーカーフェイスだから適任だ。あるいは――あの剣が寺院内で使えなかったとしても狼人のベルならば……」
相手はやはり何も答えてこなかった。肯定も否定もしない。
嘘が得意ではないことを認めているからだろう――
しばらく間を置いて、嗤いを声に宿す。
「分かってはいる。分かってはいるんだけどね、どうしようもなく腹が立つんだよ。――何もしてやれない、結局は神に祈るしかできない自分にね」
怒りなのか諦めなのかは、彼自身にも分からなかった。けれども、呟きは確かな音となり、空気に溶けた。
「…………ウェントゥス」
静かに、けれどもやけに響く声が空気を震わせた。そのどこか気遣わしげな声音に、彼は小さく笑みを零した。
何もかもを見透かすような紫水晶の瞳。
視線を落として、相手の声を遮る。
「……ああ、すまない。昼食がまだなんだ。そろそろ失礼するよ」
笑みを声に含めて、距離を取る。
相手が何かを言いたそうにしているのは分かっていた。卑怯な方法だということも理解できていたが、他のやり方までは思いつかなかった。踏み込まれて、冷静でいられる自信も余裕もなかったのだ。
無意識にため息が漏れるのを感じながら、両翼を広げる。
そんなこちらの様子にレヴェランド・メールは尚も声を掛けようとしたようだった。けれども、不意に窓の外を振り仰いだ。
彼は翼を閉じた。彼女に倣って外を見上ろす。
天気は上々だった。空を覆う薄い雲が風に流されていく。午後の陽光を浴びた芝生が目に眩しい。
「――そういえば、あの子達がそろそろウォルサムに着くころね」
「そうだね。サティはあまり遠出に慣れていないから迷惑をかけていないと良いんだけど――」
風に揺れる芝生。見下ろしたその先、視線の向こうに映るのは、どこまでも眩しい緑色だった。
目に映る空はどこまでも青く澄み、雲もまた果てしなく白い。
馬車の停留所の先に広がる通りは、道の両側に露店が競うように並んでいる。香辛料や果物、土産品など目に鮮やかな商品がずらりと並び、物売りの声や喧騒の声が高く響く。聖都ファティマと同じように、このウォルサムの港町も人々の活気やざわめきであふれていた。一つだけ違うのは、寄せては返す波の音と鳥の高い鳴き声がそれに混じって聞こえてくることだろう。
その合間を縫って耳朶を叩いたのは、少女の歓声であった。
「はははっ、見ろ。人がまるでごみのようだ」
潮の香りをゆったりと運ぶ風を受け、レオンは半眼で告げた。
「……着いて早々不健康な遊びをするな。お前、いいかげんにしろよ。分からないのか、今、どういう――」
「――説明してあげましょうか? レオン君が、今、どういう状態か」
にっこり。
圧倒的な笑顔で目の前の少女は言ってのけた。
「…………っ。遠慮する」
こみ上げてくるいろいろなものを必死で抑えようと、レオンは口元を右手で覆った。
そのまま力なく、重力に逆らうことなく地面へとへたり込む。途端、何か強く、温かな感触が背中を滑った。
視線を転じれば、栗色の立派な毛並みの狼人が背をかがめていた。彼は無言のままレオンの背中をさすっている。
「ありがとう。ベルさん。ちょっと楽になった……」
心からの感謝の声に相手はやはり何も言わない。蜂蜜色の瞳が僅かに細められた。
「いやー、噂には聞いていたけど、三半規管が敏感すぎるのも考え物だね」
やけに気楽そうな声。
ベルさん――の奥にいる青年の声だった。
長い漆黒の髪が日の光に照らされてきらめいている。紺碧の双眸の矛先は手元の本に向けられたままだ。
「ハルド。馬車の中で延々読書をしてもどうかしない三半規管もなかなか考え物だとおれは思う」
「……ベルさん、もっと言ってやって」
「揺れないことを知らない馬車の中で四時間半ぶっとおしで新聞四紙と雑誌二冊、地図帳一冊をまるまる読み通してもどうかしない三半規管は正直どうなんだろうかと俺は思う」
「…………ベルさんもうそれ以上詳しく言わないで下さい頼むから」
胃の腑からせり上がってくるものと闘いながら、レオンはうめいた。
ジークが沈痛な面持ちで虚空を仰ぐ。
「おおー、何ということだレオン君。思い出しただけでも乗り物で酔うだなんて、君はどこまで器用なんだか不器用なんだか……」
「待って下さい。それはレオン君に対してあまりにも失礼です。謝って下さい!」
「サティ……」
レオンの感嘆の声を無視してサティが続ける。
「これは思い出したんじゃなくて、パールディアまで船に乗るというこの後の楽しい楽しい展開を予見した酔い方なんですから!」
「…………お前ら」
なんとか非難しようと、レオンは立ち上がった。が、その勢いで喉の奥と胃が異様に軋んだ音を立て始めた。ほどなく彼は再び地面へと沈んだ。
サティが軽薄な口調でそっと呟いた。
「ハル君、死人に鞭打つようなことを言うなんて悪趣味すぎます」
「止めを刺したさっちーが言えることじゃないよね」
「さっちー言わんで下さい」
「ごめん」
「いいんです、分かってくれれば」
えへへ、と笑い合う二人を視界に入れ、レオンは気力を振り絞って立ち上がった。
「謝罪する相手が違うだろっつーかポイントはそこじゃないだろとりあえずお前ら俺に謝れ」
ノンブレスで捲くし立てる。と、サティが多少首を傾げて言ってきた。
「そうですね。非常に言いにくいんですが……」
「何だ」
「何でハル君もここにいるんですか?」
「全然言いにくそうじゃねえし、問題はそこじゃねえよ……」
レオンが両者に半眼を向けると、サティは空を仰いで聞こえないふりをしていた。一方、ジークはしばし呆然とした顔を見せてから頭をかいた。
「あー……、清流祭を見に行こうと思ってさ」
と、懐から眼鏡を取り出し、かける。レンズ越しに見える紺碧の瞳が、綺麗な弧を描いた。
「ほら……せっかくの長期休暇だし」
「…………」
沈黙が、あたりを支配した。
「待て待て待て。何だこの同情があふれんばかりの妙な空気は!? しかもサティ! 自分から聞いておきながら微塵たりとも興味のないそぶりは何なんだっ!?」
ひきつった声を投げられ、サティはまばたきを二、三回ほど繰り返した。間を空けず、腰に手を当てるポーズを取る。心外だと言わんばかりに眉を大仰に顰める。
「なんてことを言うんですか。この空気の半分は私たちの優しさでできているんですよ?」
ねえ、と同意を求めるようにベルさんを見上げた。
「……下手な慰めを口にしないのが優しさだとおれも思う」
ちょっと困ったように肩を下げて、ベルさんがそっと呟いた。
「……もういいです。かえってガラスのハートを粉々に砕かれた気がするんで」
吐息して、ジークはげんなりと壁にもたれかかる。のろのろと本に視線を落とした。もう一度、彼が大きくため息をつくのが聞こえてきた。
不意に左腕をぐいと引っ張られた。
「レオン君、レオン君!」
引いていた体中の血の気が徐々に戻っていくのを感じながら、レオンはぐったりとうめいた。
「今度は何だよ……」
「ほら、あそこ!」
彼女の人差し指の向けられた先を追ってみると、青い旗が風に翻っていた。ちらほらと並んでいる人が見える。
「ご当地ソフトクリーム、さっぱり塩味ですって。食べたいですか食べたいですよね食べますよねっ!」
「ちょーいらん」
口元を押さえ、即答する。
「そうですか。残念です。じゃ、私、さっそくレオン君の無念の分まで実地調査に出かけてくるんで!」
ちゃ、と右手を掲げ、彼女はこちらがあきれるくらいのんきな笑顔を浮かべた。そのまま軽やかに滑るようにソフトクリーム屋へと走って行く。
彼女の背中を見送りながらレオンは、ため息をついた。
小さく、呟く。
「一体何なんだ? あのはしゃぎぶりは……」
「緊張しているからだ」
「へ?」
思いがけず、上から降りてきた返答にレオンは目を白黒させる。まばたき数回の後、後ろへ振り返る。そこには静かな眼差しをソフトクリーム屋の方向へ向けているベルさんが映った。
「つまり、あれは緊張を誤魔化すためにはしゃいでいるのだ」
真意が分からないまま彼を見上げると、蜂蜜色の瞳が伏せられた。
「あれも昔からあまり外に出たことがない。ハーフは――目立つからな」
「あ……」
一瞬、息が詰まった。
「そんな顔をするな。そういう妙な気を遣われる方が、かえってこたえるものだ」
相手は静かにその蜂蜜色の瞳を眇めた。
ぽん、と彼の手がレオンの頭を軽く叩く。
「そのまま休んでいろ。一応、様子を見てくる。何かあったらウェントゥスに叱られるのはおれだ」
「お願いします」
頭を下げ、彼の大きな背中を見送る。
潮風が髪を揺らしていく。
ふう――とため息をついて、レオンはようやく肩の力を抜く。
刹那――
気配を感じて彼は息を止めた。一瞬、ジークかと思ったのだが、彼は周りの景色など気にせずに本に視線を落としているはずだ。
「…………?」
訝しく思いながら振り向く。眩しいほどに降り注ぐ日の光の下、振り向いた先に男が立っていた。
レオンは眉根を寄せて相手を観察する。
光を散らすような白。艶やかな白い髪が何よりも先に目を引いた。それから左目を覆う眼帯。反対側の右目は瑠璃色だった。金色の房飾りのある黒い上着を羽織った、すらっとした長身の男だった。
男は泰然とこちらを眺めてきている。
よくは分からないまま、レオンは眼差しで尋ねる。それが通じたか、彼は片目をゆるゆると細める。
「ええと……?」
彼が疑問を言葉で発するよりも、相手がこちらへと距離を縮めてくる方が早かった。
ソフトクリームの冷たくも甘い食感を味わいながら来た道をベルさんと戻る。
ジークが先ほどと変わらない姿勢のまま本を読みふけっていた。どうやら港町の景色など一切眼中にないらしい。
そのすぐそばにへたり込んでいるはずのもう一人が見当たらない。
サティはきょろきょろとあたりを見渡して、ジークへと声をかける。
「あれ? レオン君は?」
本に視線を落としたまま、ジークが答えてくる。
「さあ? 何か、ちょっと怖そうなひとに連れてかれたみたいだけど」
沈黙でその場が凍りついた。
ぱちぱちとまばたきを繰り返して、サティが疑問符を飛ばした。
「みたい、とは……?」
「あれ、突っ込むのはそっち?」
幼馴染殿が意外だと言わんばかりに片眉を動かした。
「ま、いいか。へたり込んでたレオン君に怖そうな白髪の人が話しかけて、レオン君が引きずられて行ったというわけだ」
「何だ。知ってるんじゃないですか。それで、レオン君はどこへ?」
「さあ? 君らの仕事に関係があるのかもしれないし、ないのかもしれないと瞬時に判断してとりあえず見送ってみただけだから」
息をついてから、呟く。
「……それって、ハル君は何もしなかったってことですよね」
ジーク・ハルド・アートルムは手元の本を閉じて、ようやくこちらに視線を向けた。きょとん、と紺碧の瞳を瞬いて呟く。
「そうとも言うね」
果たしてもまたしても、沈黙がこの場を支配した。