第28話 大丈夫
響いたのは、穏やかな声音だった。
「さっきはごめんなさいね。何か言いたいことがあるんでしょう?」
部屋に通されるなりレヴェランド・メールに水を向けられて、サティは視線を彷徨わせた。
「ええと……」
純白のヴェールがさらりと動く。メールは座りなおすと、机にひじを置き、あごを両手で支えた。
「質問を変えるけど……本当はさっきここへ来た時に訊きたいことがあったのでしょう?」
言ってごらんなさい、と優しげに微笑まれ、サティはついに観念した。
「あの、お姫さんが行方不明のリプル寺院で『代行人となることを命ず』ということは寺院内に巫女姫として留まらないといけないんですよね? 寺院ということは、やっぱり……」
ぎりぎりで吐き出せたのはそこまでだった。震えそうな手のひらを握り締め、瞳を伏せる。言葉にするには、まだ覚悟が足りなかった。
「ええ。寺院内では魔術は効力を持たない」
予想通りのもっとも聞きたくない回答だった。認識した途端、背筋から何かが這い上がってくるかのような嫌悪感を覚える。
「――――っ」
指先が震える。相手に悟らせまいと、ただ強く、胸元のブローチを握り締めようとする。
しかし、空しか掴むことができなかった。
あるべきはずのそれは、そこにはなかった。
そうだ。この間、壊れてしまったんだった。――否、違う。自分で壊してしまったのだ。
しんぞうが、ふるえあがった。
やり方を忘れてしまったのではないかと錯覚するほど、呼吸が上手くできない。
『――あの子の方がよっぽど』
聞こえてくるはずのない声が聞こえてきたような気がして、無意識に耳を塞いだ。
「サティ」
透き通るような凛とした声。
意識を現実に呼び戻されてまばたきをすれば、そこには普段見慣れた笑みがこちらを向いていた。
レヴェランド・メールの紫色の双眸には茶化す様子はなく、ただ静かな光が滲んでいた。
窺うようにこちらを覗いてくるメールを、サティは怪訝な思いで見返しながら、次の発言を待った。相手の瞳はまっすぐとこちらに注がれていて、視線をごまかすこともできない。サティはじっとレヴェランド・メールを見つめて――相手が口を開く気配がないことを悟り、自分から声をあげた。
「……何ですか?」
「大丈夫」
「え?」
「あんな思いはもうさせないから。大丈夫」
ただ、静かに微笑んで。彼女はそう宣言した。
目を、見開く。
「あのね。魔術が効かないっていうのは、あくまでも魔術で変装はできないということについて」
メリーアンはサティをまっすぐ見つめたまま告げる。
「まあ、リプル寺院に限ったことじゃないんだろうけど。精霊の居ますところだからっつーのは建前で、魔術が無効になるのは寺院が悪意ある者の干渉を受けないように小細工しているからなのよ。この小細工っていうのがまたよくできたものでね、侵入者をとことん放り出すように別の精霊と契約してるところも中にはあるくらい」
苦笑の混じった声。
「さて、そういう小細工がなかったら寺院はどうなると思う?」
メールが首を傾ける。白いヴェールが滑るように揺れた。
視線を落としてサティは答える。
「……出入り自由、になりますよね」
「そ。そーいうこと。精霊の神器もだけど、司祭一家はそこに住んでるわけだし、土足で上がることができたら彼らのへそくりまで危なくなるわね」
レヴェランド・メールは満足そうに首を縦に動かし、口の端を上げた。
「つまり、巫女姫そっくりに化ける魔術は、寺院のセキュリティに引っかかるからできないの。期間限定とはいえ、非公開の場所へ外部の人間を受け入れるわけだから余計にね」
こちらから視線を外さないまま静かな口調で続けてくる。
「そうそう。ひとついいことを教えてあげましょうか――巫女姫は内部でもそんなに面が割れているわけじゃないそうよ」
「……?」
わからずに疑問符を浮かべて見返す。
「立場上っていう厄介な問題じゃないかしらね。だから、先方もあんたの顔が外部に漏れないようきっちりガードを固めてくるはず。まして、『継承の儀』の直前ならばなおのこと、ね」
そこで言葉を切ると、メリーアンは視線を落とす。机の引き出しを開けて何かを取り出したのか、それを放り投げた。こちらへ。
それは窓から差し込む光を弾きながら、綺麗な放物線を描いた。サティは慌てて手を伸ばして受け止め、胸の前で抱え込んだ。
手の中にかろやかな重さが伝わってくる。よく知っているその感触と重さに、恐る恐る手を開く。
「あ……」
銀色のブローチだった。中心部で光るのは、深い青色の、大きな石で象られたセレスト大聖堂の紋章。
「最後にひとつ。いいことを教えてあげましょう」
「どうして……」
掠れた声で、サティは呆然と呟く。
それは、十二年前からそれこそつい先日まで肌身離さず身につけていたものだった。
「ささやかな餞別よ。あたしとローレンツから」
よく通る、その声。
正面からまっすぐと向けられた紫色の双眸に強い光が宿る。
「これであんたの魔力の保護はそう簡単には壊れないはずよ。何と言ってもこのあたしが組み上げた魔術なんだから」
「……おじいちゃんが、主に考案したんじゃなかったんですか」
絞り出せたのは、自分でも驚くほどの震え声だった。
「こら。ひとがせっかく格好いいこと言ってるんだから余計な水を差すんじゃないの。……まあ、確かにほとんどはあれが組み立てたものだったわねー……。ものすごく不本意だけど」
思いっきり嫌そうにメールは顔をしかめて吐き捨てた。けれども、すぐに相好を崩した。
「大丈夫。アートルム大センセイのお墨付きなんだから。『おそらくあと十二年は大丈夫だろうおそらく』って」
「……本当に大丈夫なんですか? 『おそらく』が重複してるじゃないですか」
「大丈夫だってば。『十年保障より二年も多い実績を誇るんだから大丈夫だろう』とも言っていたから」
少し間があって、冗談よ――と彼女は肩をすくめた。
「とにかく、稀代の魔術師ジーク・ローレンツ・アートルムとこのレヴェランド・メールが組み上げた魔術だもの。そう簡単には外れないし外させやしないわよ――たとえ精霊のお膝元でもね」
サティの瞳をまっすぐに見つめる、メールの紫水晶の瞳。
優しい声音が耳を打つ。
「だから、安心しなさい」
声もなく、言葉もなく、サティはただ小さくうなずいた。
やがて、縋るようにメールを見つめていたことに気づき、細く長く息を吐き出した。そのまま瞳をそっと伏せる。
「……すみません、メール」
サティの呟きにメールはまばたきを返すだけだった。
「私、お昼ご飯まだなんです。メロンパンが待っているので失礼しますね」
サティはわざと軽い声を出し、敬礼の仕草をしてみせた。
相手が何かを言いたそうにしているのには気づいていたが、笑みを浮かべて距離を取った。卑怯な方法なのはわかっていたが、他の手段を知らなかった。
けれども、ひきつった頬が表情を強張らせる。微笑みは上手く作れなかった。
レヴェランド・メールは小さく笑みを零した。強い光を宿した紫色の瞳が、優しげに細まる。
「ええ。安心して行ってらっしゃい」
その紫は、いつか見上げたファティマの夜明けの空の色に似ていた。
後ろ手に扉を閉める。深く息をつこうとして、そこで初めて上手く呼吸ができないことに気がついた。とりあえず、震えた手を胸元に運ぶ。手のひらによく知っているブローチの冷たい感触と軽やかな重さが伝わってくる。
と――手の甲にぽたり、と冷たい何かが降ってきた。
慌ててサティは渡り廊下から乗り出し、空を振り仰ぐ。
空は先ほどと変わらずに、どこまでも突き抜けるように青々としている。けれども、不思議なことにひどく滲んで見えた。
――大丈夫だ
小波のように先程の言葉が耳に蘇り、思わず息が漏れた。
途端、また一つ零れ落ちてきた。
「……大丈夫、ではないじゃないですか」
ブローチを、握る。
ぽたり。
「ほら、また一つ」
一筋、また一筋と熱いものが頬を伝って降りてくる。
震える手で、ブローチを、強く強く握り締める。目許から零れ落ちる涙を鎮めるように。溢れて、止まらない感情を抑えるように。
――結局、いつだって、あのひとたちにはお見通しで。
手のひらに伝わってくる、いつもと変わらない重み。十二年分の確かな証。
――いつだって、あのひとたちには敵わなくて。
「だから、大丈夫」
ほとんど自身に言い聞かせるように、呟く。
サティは泣きたいのか笑いたいのか分からずに顔を歪めた。