第26話 あらしのまえ
一人で見上げると、目の前の扉はいつもより大きく感じられた。
その扉の向こうには、今、一番会いたくて一番会いたくないひとがいる。
大聖堂内の喧騒は近いようで遠い。けれども、先ほどから心臓の音が急かすように鳴り響き、世界の静寂をかき乱している。
サティの頭の片隅には、嫌な予感がこびりついて離れなかった。
確かめなければならない――そう思った。不安の種は一気に刈り取ってしまいたい。
扉を叩こうと拳を振り上げる。けれども、すぐに下ろしてしまった。
――彼女の決定は絶対で、絶対に間違いはない。
そのことを思い出し、サティは言いようのない落胆を覚える。ため息を漏らさずにはいられなかった。
確かめたくない、というわけではない。
ただ、確かめるのは怖い。
会って、話して、その予感を確かなものにしてしまうことが何よりも怖かった。
思考に疲れ、サティは視線を彷徨わせた。渡り廊下の向こうには透けるような青空が広がっている。
煽るように中庭から透明な風が吹き抜け、髪を散らす。
サティは再び扉を見上げて短く息を吐いた。
「いっそのこと当たって砕けてしまえばいいんですよね、こんなの」
ぽつりと漏れた言葉は、誰の耳にも届かずに消えていった。
――勢いに任せてしまえばいいのだ。
小波のように寄せては返す不安を鎮めようと、もう一度小さく深呼吸する。すっと扉を見据え、サティは覚悟を決めた。
「レヴェランド・メール・メリーアン!! 何ですかこの仕打ち! 私のことそんなに嫌いなんですかっ!?」
身代わりだなんてものすごく面倒な仕事じゃないですか――と彼女は扉を開きながら一気に叫んだ。
相手――この部屋の主でもある――
偉大なる母ことメリーアン・クレスケンスは山積みの書類の間から顔を出した。
そして。そのまま、まばたき一つせずに無言で指を弾く。
がすっ。
硬く鈍い音が室内に響き渡り、やがて静寂が訪れた。
「落ち着いた?」
彼女――サティは顔を上げて周囲を素早く見回した。聞きなれた声はすれどもその姿はない。
視界に認めることができたのは、よく掃除の行き届いた絨毯だけだった。
「…………」
ぱらり、ぱらりと紙の擦れる音が耳を通っていく。
ここに至って、サティはようやく自分がどういう状況にあるのか気がついた。
セレスト大聖堂のレヴェランド・メール執務室内である。
鈍痛に苛まれる頭をさすりながらサティは起き上がる。絨毯を踏みしめて、レヴェランド・メールに向き直った。
そして。元凶である金ダライを一気に絨毯へと叩きつける。
「だっ……だいたい! 何で私なんですか!? こっちに頼まなくたって先方で十分――」
「――サッちゃん?」
呼びかけられ、サティはぴたりと口をつぐむ。
柔らかくよく通るその響き。彼女が自分をそのように呼ぶ時は非常に危険だ。第六感――否、全神経がそう警告している。
不必要なくらい頬がひきつるのを感じた。何も言えず、ただじっと相手を見返す。レヴェランド・メールが座っているせいで、自分より背の高い彼女を見下ろすような形になった。
相手はあごの下に両手を組み、ゆっくりと小首を傾げた。その所作に従い、緩い曲線を描いた銀色の髪が、ヴェールから零れ落ちる。
澄んだ紫水晶の瞳がゆるゆると細まっていく。
「サッちゃん。あなた、水の都のお祭りを一度は見たいと言っていたじゃない? それ、ついでに見てきていいから」
「そりゃ言いましたけど。でも――」
メール、と続くはずだった言葉に重ねられたその声。それは酷く透明な響きを持っていた。
「なあに?」
「あの」
乗り込んできた身としては、毅然と立ち向かうべきなのだろうが、相手に視線を注がれただけでサティは怯んでしまった。レヴェランド・メールもこちらが言葉を発するのを待つのみで、何も言おうとはしない。
ともすれば逃げ出してしまいそうな自分を奮い立たせる。
確かめなければいけない。不安の種は刈り取らねばならない、と。
けれども――否定したい予感が確信に変わってしまうかもしれない。
すべてを見透かしてしまいそうな紫水晶の瞳にまっすぐと見つめられ、サティには何も言葉を紡ぐことができなかった。
かけるべき言葉も見つからなければ、かけてほしい言葉も見当たらない。
と――突然、執務室の扉を叩く音が響いた。
メールはサティから目線を外し、扉に向かって声を投げた。
「はい」
扉の向こうから控えめな声が返ってくる。
「レヴェランド・メール、そろそろお時間です。礼拝堂へいらして下さい」
「はいはい。すぐ行きますよ、と」
のんきに返事をし、レヴェランド・メールは再びこちらに目線を戻してきた。
「ああ、ごめんなさいね。それで?」
「あの……」
紡いでしまえば、それだけで予感が真実味を帯びていく気がした。
瞳を伏せて、サティはかぶりを振った。微笑みが、作れない。
レヴェランド・メールが、ふっと力を抜くように吐息を漏らした。書類の山から束を抜き出す。それを机の手前に載せると、彼女はこちらに背を向けた。
「サティ」
「……はい」
名を呼ばれて振り返る。離れたところに立っていると思っていたそのひとは予想とは違い、すぐ後ろに立っていた。驚いて僅かに身を退けば、彼女は小さく笑みを漏らす。澄んだ紫の双眸の奥に、自分の姿が見える。そこに映る自分の表情にサティは息を呑む。
不意に、ぽん、と頭に手を置かれた。
視界の隅で、真っ白いヴェールが翻る。陽光を散らすように揺れるそれは、足早に扉の外へ遠ざかる。
残されたのは、耳によく通る澄んだ声音。
「それ、今回の資料。よく読んでおくこと」
「…………」
サティはやはり何も言えず、ただ縋るようにその背中を見つめ返すことしかできなかった。