25話 あらしのまえ




 目標である建物を見上げ、少女は囁いた。
「ここです」
「…………」
 相手が厳かにうなずいてくる。それを認め、こちらもゆっくりとうなずき返してやる。
 す、と右手の甲を上に向け、相手の方へ差し出す。
 相手は目を丸くし、不思議そうにまばたきをした。しかし、すぐに合点がいったのか、素直に両手を差し出してきた。
 もう一度うなずき返し、静かに表情を引き締める。次に移すべき行動を思い浮かべながら、深く深く呼吸をする。
 と――
 右手をひっくり返された。
「……生命線が長いように見える」
「そりゃどうもー…………ではなくてですね、ベルさん」
 自覚できるほど険悪な目つきになって、その手を軽く振りほどく。
 深く息を吐き出すと、相手――ベルさん――の片方の手を取った。それをこちらの手のひらの下に入れる。間を置かずにもう片方も同じように取り、今度は甲に重ねてやる。仕上げとしてその上に自身の左手を乗せる。
 ぽん、と軽くベルさんの甲――いつもながらふさふさとした栗色のそれ――を叩きながらうめく。
「気合を入れる儀式に水を差さないで下さいよ。お願いしますから」
「悪かった」
 重低音で律儀な謝罪の声が紡がれた。見上げれば、ベルさんの耳はぺたんと寝ているように下がっていた。
「えーと……」
 反応に困っているうちに、相手が尋ねてきた。
「サティ、次におれは何をすれば良いんだ?」
 蜂蜜を溶かしたような色の瞳が先ほどよりも近く見える。どうやらこちらの首が疲れないように、少しだけかがんでくれたらしい。
 静かに、だが確実にプライドに瑕が入るのを感じながら、サティは返した。
「あー……、そうですね、私の後に続けて下さい」
「わかった」
 息を深く吸い込み、サティは声をあげた。
「気合一発!」
「……気合一発」
 互いに重ね合わせた手に、気合を一発込めて下へ強く押す。
 それを素早く離し、相手に背を向ける。
 決意の炎を燃やし、足を一歩ずつ踏み出す。
 相手が同じように勝利への第一歩を踏み出しているのを気配で感じながら、サティは扉に掲げられたポスターをもう一度見上げた。
『メロンパン大感謝価格☆お一人様三個まで』

「無事にミッションクリアできそうです。ありがとうございます」
「……おれの記憶が確かならば、お前は難しい任務だと言っていたはずだ。それなのに、メロンパンが溢れかえるほどあるのはどういうことなんだ?」
 琥珀色の双眸に静かな光を宿らせて、彼は問うてきた。
 サティはゆっくりと周囲へと視線をめぐらした。
 室内は、芳ばしい香りで満たされている。棚に整然と並べられた籐籠の中には、丸いものや平べったいもの、細長いものなど様々な形や種類のパンが顔を覗かせていた。
 ――ファティマ中心街パン屋『ヘイゼル』の中である。
 ベルさんの視線は、店内奥に設けられたカウンターそばで山を成しているメロンパンに注がれていた。
 びしっ、と人差し指を立てて答えてやる。
「ああ。それはですね、味が美味しいのと美味しくないのとの狭間に位置するメロンパンだからですよ。お腹が空いている時に食べて満腹感を得れば、何故こんなパンを買ってしまったのかと思わず悩んでしまうくらいのレベルでよく分かりますよ」
「…………」
 ごほん。
 ――何やら大きな咳払いが耳に入った。
 見ればカウンターにいる『ヘイゼル』店主が、面白いように眉毛をひきつらせている。とりあえず、サティも負けじと曖昧な笑みを浮かべてやることにした。
 こちらとあちらとを怪訝な表情で見比べてくるベルさんを軽く押しのけて、サティは前へ出た。
 ぴっと指を二本立てる。
 店主が表情を引き締めるのが見て取れた。
「――二人分だな。念のため言っとくが、一人三個までだぞ」
「――望むところです」
「毎度あり」
 二人分の代金を差し出すサティの背中へ、ベルさんの感心したような声が降りてきた。 
「マニアにはたまらない逸品ということか」
「まあ、そんなところです」


『ヘイゼル』を出て、二人はもと来た道――セレスト大聖堂の方向――へと歩く。
 雲が切れて日が降り注ぐ。
 いつもと変わらずに表通りは込み合っていた。
 透明な風が頬を、髪を撫で、通り抜けていく。
 先に沈黙を破ったのは、ベルさんだった。
「ところで、わざわざ庭園までおれを探しに来なくても他にも頼める奴はいるだろう? ウェントゥスやビアンカ、レオンが無理だったとしてもハルドがいる。あれは休暇中だと言っていた」
「ハル君ですか? あー……」
 彼の指摘にサティは半眼になった。分からないというようにベルさんはまばたきを繰り返す。
 そんな相手をちょいちょいと手招きし、サティは通りの向こう側を指差してやる。
 二人の視線の先にあるのは、ファティマで一番の老舗書店『新世界』である。その店先に黒髪の青年が直立のまま店先に並べてある本を読んでいた。
 蜂蜜色の瞳が丸くなった。けれども、それはほんの一瞬のことで、相手はすぐに首を縦に動かした。
「立ち読み、か」
「立ち読み、です。今日も開店とほぼ同時に始まったのではないかと思われるので、かれこれ三時間目に突入です」
「今日もよくやるな」
「全くですよ。毎日毎日、雨にも負けず風にも負けず飽きもせずに続けられますよねー」
「十年前まで一緒にやっていたサティが言う台詞ではないとおれは思う」
「やだなあ。それはそれ、これはこれですよ」
 ベルさんの静かな指摘にサティは肩を軽くすくめた。
「それよりベルさん、メロンパンを二つプレゼントしますね。手伝ってくれた御礼――」
 カン。
 軽く、だが硬い音が響いた。それとほぼ同時にサティは額を押さえた。
「……いらないのなら口で言って下さいよう」
 口を尖らせて相手を睨む。しかし、彼もまた琥珀色の瞳を丸くしていた。
「いや、おれではない。……メールだ」
 彼はあっさりと否定し、しゃがみこんだ。そのまま足元に落ちていたものを手にすると、静かに立ち上がる。
 それは紙片であった。ご丁寧にも鳥の形に折られていた。
 彼は隅に書かれている宛名を確かめると、その一つをサティに差し出してきた。
 受けとりながらサティはぽつりと呟く。
「いつもいつも思うんですけどね、指令書ってどういう仕組みになっているんでしょうか?」
「……魔術が使えないからおれにも分からない」
 少々困ったように彼の尻尾が揺れるのが見えた。
 サティもそれ以上は追求できず、口をつぐむ。
 ベルさんは一つ嘆息すると、背筋を伸ばしたまま立ち読みに熱中している青年の方を視線で示してきた。
「それこそハルドに聞いてみたらどうだ? 駆け出しとはいえ、あれは専門だろう」
「あー……遠慮しておきます」
 嬉々として講釈してくれるであろう幼馴染の姿を思い浮かべ、サティはあっさりとお断りした。
「もれなく余計な薀蓄までついてきそうですし」
「そうか」
 それ以上ベルさんは言葉を紡ぐことなく、サティをじっと見下ろしてきた。どうやら早く読めということらしい。
 とりあえず、いつものとおりセレスト大聖堂の刻印を確かめる。
 そのまま開き、これまたいつものとおり、レヴェランド・メールの几帳面な字で綴られた文面を目で追っていく。
 ――と。
 背筋に戦慄に似た寒気が走るのを覚えて、彼女は動きを止めた。
「――――っ!」
 不意に世界の音が止む。
 通りのざわめきが遠ざかり、自身の心臓が大きく音を立てたような気がした。
 がさり、と乾いた音と共に袋が落ちる。
 全身の血の気が引いていくのを、なんとなく理解した。
 震えた手のひらを握り締め、瞳を伏せる。考えるよりも早く、足が動いた。
「どうした」
 ベルさんの不思議そうな声が背中を追いかけてくる。
「――付き合ってくれてありがとうございました。お先に失礼します」
 振り返らずに何とかそれだけを吐き出すと、サティは逃げるように駆け出した。