24話 軋んだ感情




 雲の切れ間から差し込む陽の光が、視界の端できらきらと輝いている。
 ファティマ中心街の表通りはいつもと同じように、それぞれが思い思いに行き交う人の波でごった返していた。そのざわめきは止むことを知らないかのように騒がしい。しかし、それすらもこの場では穏やかに耳を通っていく。
 新世界――聖都ファティマの一番老舗の書店である。
「お前なあ……たいがいにしろよ」
 重々しい声が、耳を通った気がする。とりあえず、彼は返事をしておこうと判断した。
「うん」
「毎日毎日、散々立ち読みだけして帰りやがって」
「うん」
「ようやっと帰りやがったと思ったら、昼飯食いに行ってただけで性懲りもなくまた戻ってくるしよう」
「うん」
「…………ハルド。お前、人の話聞いてねーだろ」
「うん」
 と。頭に鈍い痛みが走る。げんこつを盛大に頂戴してしまったようだ。
 彼は視界の文字列から顔を離さずに、抗議の声をあげることにした。
「……おっちゃん、仮にも本屋なんだからさ、パンチをするならせめて言葉で頼むよ」
「馬鹿たれ。実践による教育的指導だ。ありがたく頂戴しろ」
 容赦なく再び叩かれた頭を押さえながら、ジークはようやく雑誌から顔を上げた。
 ほとんど白髪と判断しても間違いではないような灰色の頭髪。何度も繰り返された洗濯で少々色の落ちてしまった黒いエプロンには、金文字で店名と謳い文句――万巻の書に光を掴め――の刺繍が施されている。自分の祖父と幼馴染ということだから、年齢も同じくらいのはずであるが、彼の背筋は自分が知っている昔からずっと凛と伸ばされたままだ。
 この『新世界』の主――ワーズワース氏が思いっきり眉を吊り上げているのを見て、ジークは思わず苦笑を浮かべた。
「『お客様は神様です』というありがたいお言葉がこの世にはあるくらいなんだからさ、もう少し俺に優しくしても罰は当たらないと思うぜ?」
「神聖な商品を買わずにいつまでも遠慮なく立ち読みしたおす輩をいつからお客様と呼ぶようになったんだ? ええ?」
「……おっちゃん、いつになく元気だねー。その口。いっそのこと塞ぎたくなるよ」
「ありがとよ」
「いや、褒めてないから」
 ひきつった笑みを浮かべる相手に彼も同じような表情で指摘した。ますますワーズワースの表情が険悪になっていくように見えたが。一応。
 店主はジークの手元の雑誌を覗き込むと、何故か特大のため息を吐き出した。
「……あのなあ、論文を本屋で立ち読みするな。家か図書館でじっくり読め。そーいうものは」
 ジークは、ぐっと拳を握った。
「雑誌の最新号は、立ち読みすることに意義がある」
 ワーズワースが、ぎゅっと拳を固めた。眉をひきつらせながら。
「……よーし。その意義については後ほどじっくり教育的指導してやるとして、だ。論文を立ち読みで済ませようとするその精神は、仮にも王立魔術学院研究所付きの魔術師としてどうなんだ?」
「うわー、心外だなあ。最新情報に常に目を配り続ける研究熱心な魔術師を捕まえてその発言は酷すぎる」
 眼前の店主が、ますます険悪な目つきになるのを認めながら、彼は一応抵抗の声をあげた。
 なんにしろ、はたきの柄で自身の肩を軽くたたきながら、ワーズワースがぽつりとぼやいた。
「研究熱心、ねえ。そういや、ジークの野郎はエセルで特別講義なんだって?」
 心臓が、跳ね上がる。
 恐らく、顔は強張っているのだろう――脳だけはそのことに気づいていた。指先が麻痺してしまったかのように動かすことができない。
 ただ相手が淡々と続けてくる言葉を聞くだけだった。
「年に一回あるかないかの特別講義っつーのもあってずいぶん人気らしいじゃないか、ジーク・ローレンツ・アートルム大センセイは」
「そうらしい、ね」
 何とか、それだけを口から吐き出す。
「お前もじいさんの講義を聴いてからこっちに帰って来れば良かったんじゃないか? タダとまで行かなくても、身内なんだから安く聴けただろうに」

「――冗談じゃない」
 
 静寂がしん、と耳に響いた。
 凍りついたように店主が息を呑んだ。その表情にジークは我に返り、視線を彷徨わせる。懐から取り出した眼鏡で慌てて自身の表情を隠した。
「あー、いや、……あのさ、悪い冗談は勘弁してくれよ。自分のじいちゃんの授業参観なんてわざわざしたいと思う?」
「……ああ。ま、それもそうだな」
 ワーズワースが半眼で同意する。
 と――店主の視線が不意にジークから離れる。
 自然とジークもそれを目で追う。カウンター前に小さな列ができていた。由緒正しきお客様の応対をしなければならず、ジークにばかりかまっていられるほど暇ではないらしい。
 ワーズワースは、買う気がないならとっとと失せろよ――とこちらに釘を刺す。そして、極上の営業スマイルを振りまきながら、足早にカウンターへと戻っていった。
 それを見送ると、ジークはその場にしゃがみこんだ。
 早鐘を打ち続けていた心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻すかのように鎮まっていく。発汗も指先の震えも徐々に止まり、詰まっていた呼吸をようやく吐き出した。
 『新世界』がそこそこ繁盛していることにジークは感謝した。
 ――あのまま続いていたら、間違いなく醜態を、さらけ出した。
 そうならなかったことに、安堵の息が漏れた。


 読書――店主曰く営業妨害と呼ぶらしい――の続きを再開しようとようやく立ち上がる。
 腕を伸ばしながら、なんとなく通りに目を向けると、見知った金色の髪の青年が通るところであった。
「レオン君?」
 無意識に出た声に、相手が砂のような金色の髪を揺らしながらゆっくりと振り返った。
「おう。ジークか」
 少し距離を置きながらも、レオン・カーディナライトがこちらの隣に並んだ。けれども、深い緑色の瞳は何かを探すかのように彷徨い、どこか落ち着きない。
「ああ。もしかしてサボ」
「断じて違う。任務だ」
 半眼で即答された。
「やだなー。言い終わってないのに。まだ」
 相手の反応は予想の範囲内のことだったので、ジークは吹き出しそうになった。懸命に堪えて疑問符を投げる。
「どうもさっきからこの辺をうろついているみたいだけどさ、探し物?」
「いや……」
 レオンは一度言葉を切り、重々しく嘆息した。
「徹底的にファティマの地理を覚えろとレヴェランド・メールから言い渡されてな……」
 ため息と共にレオンはぐったりと吐き出す。その表情は極めて暗い。この世の不幸をいっぺんに飲み込んでしまったかのような眼差しでこちらを見つめ返してくる。
 と。
「ああ、いたいた。困るなあ。勝手にはぐれないで下さいよ。トイレ休憩はもう十五分も前に終わっているんですから」
 緑色の旗を翻しながら壮年の男性が足早にこちらへ近寄ってきた。右腕にはめているこれまた同じ緑色の腕章には「ファティマ観光局」と刺繍されていた。どうやら観光局の職員らしい。
「あちらの集合場所で皆さんずいぶんお待ちになっています。さあ、行きますよ。次はいよいよ今回のツアーの目玉、セレスト大聖堂です」
 職員に襟首を掴まれ、ずるずると引きずられながらレオンは去って行った。気のせいでなければ、迷子になったわけではないとか、不幸にも道を外れただけだとか何とか必死に抗議の声をあげているようだ。
 引きずられて行くレオンに向けていた眼差しを戻す。ついでに視線をぐるりとめぐらせば、旗を持った人間を何人も確認できた。レオンを迎えに来たファティマ観光局以外にもあちこちから似たような団体が訪れているのだろう。
「こちらは新市街と旧市街とを繋ぐ中心街です」
「セントラル・スクエアで昼食時間を取りますので、お店での試食はほどほどにお願いします」
「ご覧下さい。こちらからもその姿を捉えることができるセントラル・スクエアの時計塔は、聖都のもう一つのシンボルとして親しまれています」
 ファティマを案内する声があちこちで木霊する。なんとはなしにジークも耳を傾ける。
「聖都ファティマはこのアルカディア王国第二の規模を誇る街です。中心地にそびえたつセレスト大聖堂、そして、壮麗な石畳と豊かな緑で彩られたこの都は、王都エセルと同様にアルカディアの歴史を語る上で外すことはできないとも言われています」 
 そのファティマは歴史家や観光ツアーを組む観光局だけでなく、魔術師にとっても重要な街である。
 マナの流れが交差する場所の一つだからだ。
 かつて人類は、世界及び大気に満ちているマナを操る方法を生み出し、それにより火や熱、光などを作り出して文明を築いていった。マナが「すべての源であり、世界をつくる要素」とされているのはそのためである。
 また、マナの交差する場所は、パワースポットとして特に重要視されてきた。アルカディア王国では聖都ファティマの他に王都エセル、アルトゥスの森が「マナの交差する場所」として挙げられるが、それらの性質は厳密には異なる。王都ではマナは交差し、とどまる。それに対し、聖都ではマナは交差し、流れていくのである。
 魔術とは、世界に満ちているマナに、自らの精神の波動を共鳴させて自然界の力を借りるというものである。魔術の及ぼす力は自身の持つ能力とその場のマナの濃さに左右される。だからこそ、魔術を研究の糧にしている魔術師はパワースポットを重要視してきたのである。
 常にマナの満ち溢れる王都エセルが魔術師の出発点であり、終着点であるとされているのは全てここに起因する。
(――王都以外のパワースポットを俺たち魔術師が厭う理由はそこに由来するわけだけど)
 思わず、苦い笑みが零れた。
「駄目だな、こりゃ。気を抜くとどうもそっちに考えが染まる」
 呟きは誰の耳にも届かない。
 ジークは一度目を伏せて、改めて周囲へと視線を触れさせた。
 セレスト大聖堂へと流れて行く、あるいは、流れてくる観光客。褐色の肌の者が通ったかと思えば、透けるような白色やほんのりと赤く上気したような色の肌の者もいる。また、金、銀、赤銅、黒、茶……と、様々な髪や瞳の色の者が次から次へと往来していく。
 ジークはこの光景を眺めるのが好きだった。
 どこがどう、というわけではない。だが、風のようにとめどなく流れていくその光景は、言葉や思考を一所にとどめることなく、どこかへとさらって行ってしまう。人ひとりのちっぽけな感情さえも。
 賑やかにこの街に溢れる活気が心地よく耳に響く。
 ぼんやりと眺めていると、なんとはなしに大聖堂の方から歩いてくる二人連れの姿に目が止まった。
 一人は艶やかな栗色の毛並みをした狼人。もう一人は青い帽子を被り、亜麻色の長い髪をなびかせてその数歩先を行く少女である。前者の頭が行き交う人々よりも随分と抜きん出ているのもあり、元々小柄な少女の姿が余計に小さく見えた。
 単に昔から見知っている二人だというのもあるのだろうが、小柄な方が大柄な方を勇ましく先導している様子は不思議と目立つ。
 と――狼人が突然立ち止まった。
 先を進んでいた少女――ジークにとっては親愛なる幼馴染殿でもある――も何かを察知したのか、慌てて振り返った。
 狼人の彼は、眉も尻尾も動かさずに花屋の窓を熱心に覗き込んでいる。どうやら花の苗に見とれているらしい。
 後生ですから今は花より団子にして下さいよう、とわけの分からないことを少女――サティは困ったように告げた。そして、素早く相手の後ろへと回り込み、雄雄しい背中を押し始めた。
「ベルさん、お願いしますから動いて下さい。立ち止まったら置いてけぼりを食うだけです」
 必死にサティが説得を試みる。けれども、名残惜しいのか、ベルさん――狼人の方である――の背中は動かず、尻尾がぱたりぱたりと力なく揺れるだけである。
 尻尾は口より物を言うんですねえ、と言い得て妙な感想を漏らしながらサティは容赦なく彼の背中を押し続けている。しかし、ベルさんもなかなか動こうとしない。
「……任務が終わったら寄ってもいいですから、お願いします」
 その言葉を合図にベルさんの岩のような背中がようやく動いた。当然、サティが前へつんのめる。
「きゅ、急に動かないで下さいよ。危ないじゃないですか」
「何を言っている? 急ぐのだろう。それとも実は急いでいないのか?」
 心底不思議そうな声音で問うベルさんに、サティががっくりと肩を落とした。
「……もう何でも良いです。進んでくれるなら」
 それだけを力なく言い放つと、サティはふらふらと歩き始めた。何も言わずにベルさんもその後を追う。
 そんな二人を結局見送ってしまったジークは、ようやく手元の雑誌論文に目を落とした。
 けれども、少しも集中することができない。水の精霊の本論にまで差し掛かったはずなのだが、何度となく、目が滑り、序論を読み返さなければならなかった。序論に戻る度に混乱は増し、内容を把握するのにも時間がかかる。
『立ち止まったら置いてけぼりを食うだけです』
 先ほど耳を打った言葉が脳裏に反響し、離れない。
 ジークは空を仰ぐ。そこには変わらぬ青空が広がっている。けれども、美しいとは感じられなかった。
 零れ落ちたのは、途方もないため息であった。