23話 夜明けには遠すぎる




 沈む前の夕陽が、その部屋を一枚の影絵に仕立て上げていた。夕焼けの赤。濃さを増していく影の黒。二色に塗りつぶされた風景は、胸の内に押し込めていたはずの焦燥を浮かび上がらせた。
 室内を狭くしている大量の書物と、それらを収める書棚。何段か空けてある段には、秤や水晶玉、色々な鉱石や鳥の羽、とかげの爪、鱗が入れられた瓶などがある。それらに挟まれるようにして鎮座する机の上には、古い書物や書類などが山のように積まれていた。
 その僅かな隙間から顔をのぞかせ、相手は言葉を紡いだ。
「聖都の研究所の人手が不足しているということは以前から問題視されていてね」
 目の前にいるのは、王立魔術学院研究所付きの魔術師である。もう何年も――それこそ学生時代から――師事しているクロフォード師。
 師は一度言葉を切り、鋭く見える指先でこつこつと机の表面を叩く。漆黒よりも深い黒の双眸を伏せ、次の言葉を発してきた。
「昨日、執行部から通達が出された」
 唐突に自分がここへ呼び出された理由を理解する。
 とりあえず気持ちを落ち着かせようと、彼は吐息した。と。
「――俺ですか」
 意に反して、声が漏れた。
 けれども、相手の表情は動かない。師はこちらの反応を予想していたようにも見えた。ため息が零れる。
「……俺に、いえ、私に決定したということですか」
「いや、まだ正式には決定していない」
「え?」
「執行部は派遣者の選出を促してはきたが、指名まではしていないのだ」
 彼は無理に、意識的に唾を飲み込む。唾は重く、喉を過ぎていく。
「はっきり言おう――私は君を推薦したい」
 彼は師の紡いだ言葉を、頭の中に浮かべて反芻する。それを五度は繰り返した。つまり、その意味を理解するまでにそれだけの時間を要した。
 とりあえず彼は深く息を吐き出した。しかし、それでも動揺は完全には消えず、声が震える。
「正式な決定ではないというのは――」
「まだ執行部へ返事をしていないからだ――迷っているんだよ」
 こちらの言葉を遮ると、そのまま師は疲れたように額に手を当てた。
 今一つその理由がわからずに、眉根を寄せて師を見返す。

「君が、アートルム家の者だからだ」

 ぽつりと紡がれたその言葉。室内には師と自分しかおらず、空音であるはずがないそれ。
 背筋にぞくりと寒気が走る。全身が強張るのが分かった。不自然に開かれた唇からは、何の音も発せられない。
 師は視線を彷徨わせた後、表情を隠すように下を向いた。ほんの少し瞳を伏せたままあとを続けてくる。
「君の家は古くから代々優秀な魔術師を輩出し、魔術界に大きく貢献してきた。――だからこそ、迷うのだよ。アートルム家の者をあのファティマへ派遣するだなんて執行部はおろか、他の魔術師たちが黙ってはいないだろう」
「…………」
 思わず手のひらを握り締める。
 胸を包み始めた様々な感情を抑えるように、深く深く息を吐き出した。震えている自分の上腕部を手のひらで強く握り、つとめて冷静な声でもう一度問いただす。
「――つまり、先生はファティマ行きを推薦ではなく、あくまでも俺自身の志願という形にしたい。そういうことですね」
「そういうことだ。……すまない」
 師は深い吐息と共に頭を下げた。
 耐えられず、師から視線を逸らす。その深い黒色の瞳に自分の姿を映し出したら、溢れ出すであろう感情を抑えきれないと知っていたからだ。

 ――蓋を、押さえなくてはいけない。

 だから、視線を逸らしたまま問う。
「執行部への返事は、いつまでなんです?」
 喉からは乾いた歪な音しか出なかった。
「今月末だ」
「……少し、考える時間を頂けませんか?」
「あ、ああ。もちろんだとも。休暇を取るといい」
 声音から師の安堵したような様子が窺えた。
「失礼します」
 背を向ける。これ以上何かを言う気はとても起きなかった。
「あ、アートルム君! その――」
 あとに続くであろう言葉は、予想ではなく確信できた。聞く必要もなければ、聞く余裕もなかった。つとめて口元に笑みを浮かべて答える。
「祖父にはよろしく伝えておきますよ、先生」
 口に出して、吐きそうになる。
 振り返らずに何とかそれだけを告げると、彼は今度こそ部屋をあとにした。
 後ろ手に扉を閉め、目を閉じる。


 目を開けると、見えたのは天井だった。見慣れた天井。数年前までは毎日見上げたまま眠り、目覚めれば一番に目に飛び込んでくる、本当に見慣れた天井。
 聖都ファティマの、実家の自室。自分のベッドの中。
 窓からは徐々に傾く夕日ではなく、まだ夜明けから覚めきらぬ白く柔らかな光が差し込んでいる。
「――いっそ夢なら、覚めれば終わるのにな」
 天井を見続けたまま、独りごちる。
 朝の空気の静けさに、身体が震えた。


 街が朝を迎えて動き始める音の聞こえる窓を背に、ジーク・ハルド・アートルムは立ちつくした。
「あら、おはよう。今日はずいぶん早起きなのですねえ」
 やや間延びした声音。
 テーブルの上で皿を並べているそのひとは、動きを止める。
 茶色の直線を集めて描いたような髪。翠色と紫色の双眸。
 窓から差し込む白い光が、くらがりから守るように彼女の身体を包んでいた。
 ふ、と短く息を吐いて、ジークはそばの椅子に腰掛けた。
「……おはよう。ばあちゃんこそ、早いね」
「ええ。久しぶりにプディングを作ろうと思いまして」
 やわらかく微笑んで、祖母ビアンカ・アートルムは竈にかけている鍋を指差す。砂糖の甘い香りが室内を包み始めている。
「しばらく食べていなかったでしょう?」
「あー……、こっちにはしばらく帰ってなかったしね」
「いえいえ。そうではなくて」
 ビアンカは何か面白いものを見つけたときのように双眸の光を躍らせた。
「私のプディングはともかくとして。エセルでは、甘いものをつまむ暇もないくらい研究に没頭していたのでしょう?」
 意表をつかれてジークは言葉を失う。
 ふふっと笑みをこぼして祖母は続けてくる。
「サッちゃんがね、いつもぼやいていましたよ。ハル君の送ってくるお菓子はハズレが多すぎるって」
 幼馴染の少女の名前を出して、祖母はにこりと笑う。
「見た目と味のギャップが凄まじいとも言っていましたよ。たぶん、きちんと味見もせずに適当に選んで送っていたのでしょう?」
 にこにこと容赦なく指摘され、ジークはずるずると椅子の背を滑る。
「一応、新商品とか爆裂ヒット中とか銘打ってあるのを選んでたんだけどなあ……。見た目と味は必ずしも比例するわけではないのか」
 椅子の背もたれに身を預けたままぼやく。
「何事も実践が必要です。魔術師たるもの理論だけで勝負してはいけません」
 凛と背筋を伸ばして言い放つ祖母に彼は頭を下げた。
「……おっしゃるとおりです」
「わかればよろしい。それでは罰として味見を言い渡します」
「はいはい。謹んでお受けします」
 軽口で返せば、くすくすと笑みを漏らしながら祖母は鍋から器へとキャラメルソースを掬い始めた。
「どう? 甘すぎないかしら?」
 心配そうに覗き込んでくる祖母に吹き出しそうになりながら、ジークは匙を口へ運んだ。
 じわりと口の中に広がる、甘さとほろ苦さは懐かしかった。
「美味いよ。控えめな甘さでちょうどいいんじゃないかな」
「あら嬉しい。あとでサッちゃんたちにもお裾分けできますね」
 ふわりと口元をほころばせて、祖母は両手を胸の前で合わせた。
 そのまま彼女は軽く首をかしげた。まばたきを繰り返しながら、こちらに問う。
「そういえば――ハルド、休暇はいつまでなの?」
 どくり、と高く鼓動が鳴った。
 震える指先を相手に気づかれないよう、匙を強く握り締める。
 ジークを見据える、祖母の翡翠色と紫色の双眸。まっすぐとこちらに注がれたその瞳。
 視線を落としてジークは長く息を吐く。
「…………今月末までだよ」
 紡いだ言葉が空気を震わせる。その声の温度は冷たかった――自覚できるほどに。
 口の中で転がるキャラメルソースが、苦く残った。