34話 違和感の正体(前)




 風を受けてはためく帆を見上げると、その白さに目がチカチカした。忙しなくまばたきを繰り返していると、肩を叩かれる。
 隣に立つベルが水平線の向こうを指さした。白い翼を広げ、上空を舞うカモメの群れが見えた。
「図鑑で見るよりも迫力ありますねえ。地図よりもずっと海も広いですし」
 こちらを見下ろす年嵩の幼馴染の瞳が、ゆるゆると細まった。日に透けて優しげに細まる蜂蜜色のそれをじっと見ていられず、少女は頬を掻いた――自分の声が普段よりずっと上擦っていることに気付いたのであった。
「そうだな。まずファティマでは見ることができない。生きた知識とはこういうものを言うのだろう」
「そんなわくわくする景色を楽しまない方々もいるようですが」
 サティはちらりと甲板を振り返った。
 日に暖められた海風が頬を撫でるように吹く中、もう一人の年の近い幼馴染は新聞を絶賛読み耽っている最中だし、舎弟はというと、ぐったりと甲板でうずくまっている。
「へんじがない。ただの――」
「殺すな」
「レオン君がしゃべった!」
 舎弟ことレオン・カーディナライトは陽光を散らす金髪の眩さを一瞬にして覆い隠してしまう陰鬱な目つきでこちらを射抜いた。
「……お前なあ、用件は何だ」
「いえ、つかぬことを思いついたので」
「じゃあ言うな」
「おや、残念」
 沈痛な面持ちでサティは告げてやる。
「ハル君の魔術でぐっすり眠らせてもらえば、酔わずに済むのかなあと思いついたんですが、失礼しました」
「待て待て待て。そういう重要なことは速やかにかつ積極的に言って良いから! っていうか、できるのか? そんなことが!?」
 縋り付くようにジークへと眼差しを向けるレオン。相手はやんわりと肩をすくめた。相変わらず手元の新聞――ウォルサムで新たに仕入れたらしい――に目を落としたまま、告げる。
「や、薬のよくある副作用って睡眠を促すものが多いからさ、眠っている間はひとまず苦しみから解放されるんじゃね? という話だよ」
「帰りの馬車はぜひお願いします」
 砂のような金髪が大きく揺れた。レオンが頭を下げたのである。空気が動いたのを感じたのか、ようやく新聞から目を離し、ジークが目を丸くさせた。
「おや、今はいいんだ?」
「プリムさんの所の薬が効いているみたいだし、思っていたよりも揺れが少ないからたぶん大丈夫だたぶん」
「……たぶんが重複してますよ」
 とりあえず、サティは指摘した。
 よくよくレオンを観察すれば血の気は引いているものの、ファティマからウォルサムまでの馬車での移動時よりも顔色の悪さは和らいでいるように見える。あの時は完全に土気色をしていた。沈痛な面持ちで座り続けるレオンを見かねて、サティは気を紛らせようとポーカーや大富豪のカードゲームを提案したが、年嵩の幼馴染からストップをかけられた。ちなみにもう一方の年の近い幼馴染はというと、地図帳を読み耽るのに没頭していた。
 あの時よりは良さそうに見えるのだが、ぐったりと重い息を吐いて荷物に寄りかかるレオンに話しかけるのには正直気が引けた。
 サティは甲板の手摺りに乗り出すように体重をかけ、再び青海原に意識を戻した。
 さざ波に、船が揺らめく。陽射しが水面に反射して、きらきらと光を散らす。
 周囲は見渡す限りの海原である。青一色ではあるのだが、単純にただの一色だけとは言い難い。青、蒼、藍、碧。それぞれの色を打ち消すことなく、混ざり合っているのだ。
 ――海原を表す色を一つだけ挙げよと問われたら、どの色を答えるべきなのだろう。
 青色にこんなにも種類があるということを初めて知ったような気がして、サティは深く息を吐く。
 真っ青な空は海に近づけば近づくほどに透明になっていき、最後は水平線に白く消えている。
「海に溶けていくようですねえ」
「そうだな」
 ひどく優しい低音が耳を通った。聞き慣れたはずの幼馴染の声である。
 瞬間、全身の血が沸騰しかけた。感じたままに言葉に出してしまっていたこと、それを誰かに聞かれることの恥ずかしさ、プライスレス。
 頬が一気に熱を帯びるのが分かり、行き場のない気持ちに思わず手摺りに顔を埋めた。
 見渡すかぎりの青。海色の中に底は見つからない。

 絵画のような景色に初めて変化が訪れた。船のシルエットが視界に入ってくる。
「おや。もしかしてあの大きな船は例の豪華クルージングで行くプランのものでは?」
 こちらの船よりも二回りは大きい。けれども、どっしりとした構えの割に優美な印象が強い。マスト部分や船尾、船全体に精緻で華やかな装飾が一つ一つ施されているのである。金色の優雅に縁どられた紋様は、陽射しを受け、輝きを増しているようである。
 のんびりとベルに声をかけ、サティは目を丸くした。
「おお。噂に違わず本当に速いですねえ! 先を行く豪華客船に追いつきましたよ」
 そして、サティは息を呑む――
 豪華客船が先ほどよりも大きくなった。否、ファーロの船が速度を上げたのだ。
 けれども、少しも船は揺れていない。滑るように徐々に緩やかに速度を上げていく。
 風に翻る髪を押さえながら、サティの眼は前方に釘付けになった。
 豪華客船の姿を捉え、視界に迫り――ついには追い越した。
 どちらからともなく、隣に立つ年嵩の幼馴染と目が合う。黙してはいるが、彼も驚いているらしい。蜂蜜色の瞳孔が大きく開いている。
 髪から手を放してサティは上方を仰いだ。
 太いマストから伸びた先で白い帆が陽射しを一身に受けている。風は穏やかである。それから追い越した豪華客船の方を見やり、もう一度マストを見上げる。帆の大きさに違いはあれど、どちらも帆船である。ファーロやケイオスが櫂で漕いだ様子もない。
「式札、ですかね?」
 海原で凪に出くわした船乗りは、魔術師が販売している「とっておきの式札」で切り抜けるのだという。
 式札は魔術の心得のないものでも手順さえ誤らなければ、あらかじめ札に組み込まれた魔術式を展開することができるのだ。
 サティも幼い時分に式札から流れ出す一陣の風で凪を脱出したという船乗りの冒険譚を父やセレスト大聖堂の大人たちから聞かされたり、昔話として絵本で読んだりしたことがあった。
 それに彼女自身もまた大聖堂の代行人を務めるようになってから式札を持ち歩いている。
 懐に入れた式札を触りつつ、ベルに問えば彼は首を振った。
「……いや、どうやらそうではなさそうだ」
 歯切れ悪く答え、彼はもう一人の幼馴染を指差した。
「式札ならば、まずハルドが黙っていないと俺は思う」
 二人の幼馴染である王立魔術学院研究所付きの魔術師殿は、変わらずに新聞に没頭している。艶のある黒髪がそよそよと風に揺れ動いているが、本体の動きは見られない。
 ジーク・ハルド・アートルムは職業柄か(職業病だとサティも周囲も認識しているのだが)、術式が展開する際に起こるマナの変容に目がない。否、目敏い。
 その魔術がどの術式を組み込んで展開されたのか、改良したらもっと速く展開できるのか検証・考察することを彼は楽しむのである。
「確かにハル君が全然食いついてこないだなんて妙ですね」
 雨でも降りますかねえ、とサティは上空をちらりと見る。空の青にくっきりと映える白い雲が見えるばかりで暗い雨雲らしきものは確認できない。
「でも、おじさんもお兄さんも式札を取り出した様子はなさそうですし……」
 操舵室の覗き窓に視線を注ぐと、操舵輪の前に立つファーロの広い背中とそのすぐそばで何やら忙しなく腕を動かしているケイオスの姿だった。
 サティは首を捻る。
 ベルの尻尾が低い位置でゆっくりと揺れている。振り子のように揺れ動く艶々の尾を眺めていたサティだが、ふと、脳裏に閃きが走った。手のひらをぱちんと合わせる。
 怪訝な表情を浮かべる蜂蜜色の瞳を見据え、自信たっぷりと頷いた。
「謎は、全て解けました!」
「ほう、何だったんだ?」
「そう。全ては偶然にもハル君が突然の長期休暇を手に入れたことから始まっていたのです――」
 息を呑むベルにもう一つ頷いてやり、サティは至極真面目な面持ちで真相を語り始めた。
「彼のめくるめく研究の日々は充実していた。だが、忙しさに比例して積み重なっていく疲労は体調不良への序曲を奏で始めていた。慢性的な疲労は彼の身体を徐々に、けれども確実に蝕み、その魔力や能力を枯渇させた。ついに彼は魔術を自力で組み上げることはおろか、マナの流れやその変容を感じ取ることさえもできなくなって――」
「――ないからね」
「わ」
 唐突に視界が揺れた。軽いもので額を小突かれたのだ。
 額を押さえて顔を上げれば、件の王立魔術学院研究所付きの魔術師殿が口許を緩めていた。ただし、その紺碧の瞳は笑っていない。
「こらこら。三文小説にもならないぞ、その推理」
 嘆息し、ジークは縦長に丸めた新聞で自分の肩を叩いた。
「別に俺はぴんぴんしてるし、突然の長期休暇は溜まりに溜まっていた有休の消化が主な理由で、上からクビを言い渡されたわけじゃないからね」
 しん、と沈黙が降りた。
 かぶりを振り、サティはそっと目を伏せた。
「……ハル君、大丈夫です。気遣い無用です。皆まで言わずとも私とベルさんにはちゃんと分かっていますよ。長い付き合いじゃないですか」
「えっ」
「そうだぞ、ハルド。サティの言う通りだ。そういう話は自分からは言い出しにくいものだとおれも聞いたことがある。あれこれ悩まずにまずはよく休んで治した方が良いとおれも思う」
「あれっ?」
「浜辺で魔術が上手く展開できなかったのも体が不調だったからなんですね分かります……」
「何ですかこの優しさあふれる空気は……」
 なぜか頬を引きつらせ、ジークが叫び返した
「ちょっと待て! 俺は潔白だ! シロだ! そもそも先月の健康診断でも健康優良児のお墨付きだぜ? だいたい浜辺の炭火焼き事件のあれは、ベルさんが俺の裾を掴んだから発動できなかったんだって!」
 サティとベルは互いの顔をゆっくりと見合わせる。陽射しを受けて琥珀玉が光を弾く。
「そうでしたっけ?」
「そうか。そんなこともあったかもしれないな……」
「俺の渾身の傑作術式をぶっ潰しておきながらその反応かい……」
 ジークが苛立たしげに頭を掻き毟る。
「認めたくないものですよね。若さゆえの過ちとは」
 ぽつりと言えば、何故かジークの瞳は死んだ魚の如く輝きを失っていた。
「すいません。もう二人とも今日は黙ってくれませんか……」
 眉をきりりと引き締め、二人は頷き返した。
 再び静寂が世界に満ちた。
 潮騒を背景に海鳥が高い声で鳴く。
 舌打ちを一つして、ジークが苛々と新聞の筒を動かした。
「ウォルサムの地元紙に熱中していたのは認めるけど、少なくともこの船にいる間、新たな術式展開の気配は感じなかったぞ」
「え」
 ぽかんと開いた口を押さえ、サティは問い返した。
「待ってください。『新たな』ということは、古い魔術、いえ、船が出るより前から展開している魔術の気配はあるんですか?」
 す、とジークは新聞筒を向けて指した。こちらを。
「えっ?」
 サティは目を瞬かせる。
「そのブローチ、確かうちのじーさんとメールが作った奴だったよな」
 サティの胸元にある銀色のブローチを指さし、ジークは軽い調子で言ってきた。
「ほんの少しだけど、常に術式展開してるんだよね」
「そうなんですか?」
 初めて耳にする事実にサティはただ目を瞠った。
 中心部で光る深い青色の、大きな石で象られたセレスト大聖堂の紋章に触れ、サティはじっと耳を傾ける。
「そうとも。大がかりな術式組み込んでる割には省エネだぞ。召喚術の契約部分の応用なんだけど、常にその場の微量なマナと対象者の魔力を原動力に、対象者の魔力領域変化の監視を――」
 意気揚々と講釈を始めた彼だが、突如言葉を切った。
「ごめん。サティに聞かせて良い話でも面白い話でもなかった。本来ならそんなの身につけなくていいはずなんだよ。ごめんな」
「……いえ、大丈夫ですよ」
 これがあるから自分は平穏無事に暮らせるのだ。
 お守り代わりのブローチを手のひらで包み、サティはへらりと笑った。
「それよりハル君、私のブローチの他にも展開している術式はあるんですか? それが船の謎の速度アップに関係しているんですかね」
「あとはそうだな。そのベルさんのでっかい荷物」
 彼の指摘にサティは目が点になった。思わぬところにジョーカーが潜んでいた。完全に想定の範囲外である。
 ぐったりとレオンが寄りかかる荷物類の中にひときわ大きな鞄と包みがあった。
 海よりも深い紺碧の瞳が眇められる。
「ベルさんってあんまり物を持たないじゃん? 今日はやけに荷物が多いから不思議だとは思っていたんだよな」
 幼い頃より何度も、それこそ両の手のひらでは数えきれないくらいベルの部屋に遊びに行ったことのあるジークとサティである。
 いつ二人が押しかけても彼は嫌な顔をしなかったし、いつ上がり込んでも彼の部屋は片付いていた。元々物には執着しない性分なのだろう。必要最低限の家具や調度品の他は、せいぜい彼が庭園で育てている花が一輪挿しに飾ってあるくらいの慎ましい部屋であった。よく言えばシンプル、悪く言えば非常に殺風景であった。
「それ、どんな術式なんですか?」
「ああ、大方レヴェランド・メールが組んだと思われる封印(ロック)の術式が幾重にも――」
「ハルド」
 重低音が鋭く空気を切り裂いた。
「お前は賢い。機密は人命より重い。――後は、分かるな?」
 疑問ではなく、確認であった。
 ジークは頬をひきつらせる。そのまま降参だとでも言うように新聞を脇にはさみ、両手を挙げるポーズを取った。
「ごめん。悪かった。仕事について詮索するつもりはないよ」
「それならいい」
 一対の琥珀玉は凪いだままだ。特別怒っている様子も苛立っている風でもない。けれども、尻尾の栗色の毛は少々逆立っている。一応、彼も内心では吃驚していたらしい。